大判例

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福岡高等裁判所 昭和60年(ネ)32号 判決 1985年7月02日

控訴人 福岡高等検察庁検事長 ○○○○

被控訴人 北川林海こと周文清

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は国庫の負担とする。

事実

控訴人は、「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、主文同旨の判決を求めた。

当事者の主張及び証拠の関係は、当審において控訴人は、本件訴えは民法七八七条但書に規定する出訴期間経過後に提起された不適法なものであるから、却下されるべきであると主張を付加したほかは、原判決の事実摘示に記載のとおりであるから、これを引用する。(<省略>)

理由

当裁判所も原判決と同様被控訴人の本件訴えは適法であり、かつ請求は理由があると認定、判断するが、その理由は次のとおり訂正し、改めるほか原判決の理由説示と同一であるから、これを引用する。

原判決六枚目表九行目の「接衝」を「折衝」と訂正する。

同八枚目裏五行目から一〇行目までを次のとおり改める。

「そもそも、民法七八七条但書所定の出訴期間は、父又は母の死亡が客観的に明らかとなり、かつ、子、その直系卑属又はこれらの者の法定代理人において認知の訴を提起することが可能な状況下にあつたことを前提としているものと解されるところ、本件にあつては、利明は昭和三一年九月二五日に死亡し、異国にある被控訴人が利明の死亡を知つたのは昭和三〇年代の後半であつて、被控訴人が利明の死亡の日から三年以内に認知の訴えを提起することが事実上絶対に不可能であつたこと及びその事情は前記認定のとおりであり、右の事実に照らして考えると、被控訴人が出訴期間を遵守しなかつたことはまことにやむをえないものというべきであるから、本件について前同条但書所定の出訴期間は、右の訴提起が不可能である事情が解消したとき、すなわち日中平和条約が締結され、被控訴人が日本国に入国することができた昭和五六年九月二一日を起算日とするのが相当である。そして、本件訴えは、昭和五七年五月二五日に提起されたのであるから、適法というべきである。」

よつて、被控訴人の本件訴えを適法と判断し、かつその請求を認容した原判決は正当であつて、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条、人事訴訟手続法三二条一項、一七条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 齋藤次郎 裁判官 山口茂一 石井義明)

〔参照〕原審(長崎地 昭五七(タ)一一号 昭五九・一二・一九判決)

主文

一 原告が本籍佐賀県佐賀市○○×丁目×××番地亡北川利明の子であることを認知する。

二 訴訟費用は国庫の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一 請求の趣旨

主文と同旨

二 請求の趣旨に対する答弁

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一 請求の原因

1 訴外亡北川利明は、日本国籍を有していた者であるが、昭和三年ころ、日本から中国上海市に渡り、同市において酒販売業、農場経営などの事業をしてきたところ、昭和七、八年ころ、訴外亡周慶蘭と生活を共にするようになつた。

2 慶蘭は、利明の子である原告を懐妊するに至り、昭和一六年七月二九日、上海市において原告を分娩した。

3 利明は、昭和二一年、慶蘭及び原告を上海市に残して日本へ帰国し、原告を認知しないまま昭和三一年九月二五日死亡した。

4 ところで、原告は、中華人民共和国において、幼いころから日本人の子として迫害され続け、日本へ入国することを希求していたが、日本と中華人民共和国は昭和四七年までは国交がなく、日本へ入国することは法律上不可能であつたし、日中国交回復後においても、文化大革命による混乱等のため日本へ入国することが事実上不可能に近い状態にあり、原告は、昭和五六年九月二一日、努力の末ようやく日本に入国した。今回の帰国については三か月の親族訪問ということで許可がなされたが、原告の真意は、日本国籍を取得し、日本に永住するというにある。そこで、原告は、まず、本件訴を提起し、他方、日本語の習得に努め、職業訓練に励んでいる次第である。

5 本件訴えは、利明の死後三年を経過した後に提起されてはいるが、そもそも、民法七八七条但書で死後認知の出訴期間が制限された趣旨は、父の死後、長期にわたつて身分関係が不安定な状態におかれることを防止するにあるとはいえ、認知制度は嫡出でない子にとつて法律上父子関係のあることを認めてもらう唯一の方法であるから、その利益も当然に考慮されなければならないものであるところ、前記事情からして、原告が利明の死後三年以内に認知の訴えを提起することは、中国国内においても、日本国においても、事実上不可能であつたのであり、原告が日本に帰国した昭和五六年九月二一日に至つて、はじめて、これが可能になつたというべきであるから、そして、また、原告の実の兄妹はもとより異母兄弟である利明の嫡出子らも、原告が認知されることを望んでおり、現時点で本件認知が認められたとしても、ことさらに身分関係の法的安定性が害されるとはいえないから、本件においては、民法七八七条但書の適用を控除すべきであり、又は、その出訴期間の起算日を原告が現実に日本に帰国して出訴可能となつた昭和五六年九月二一日とすべきである。

しからずとすれば、実際において、裁判の拒絶に等しい不合理を原告に強いる結果となり、憲法三二条に反することとなる。

6 よつて、原告は、検察官を被告として、原告が利明の子であることの認知を求める。

二 請求原因に対する認否

請求原因事実はすべて不知。

第三証拠<省略>

理由

一 いずれも戸籍謄本又は戸籍の附票の謄本であるから公務員が職務上作成した真正な公文書と推定すべき甲第一ないし第三号証、第九号証、原告本人尋問の結果(第一回)によつて成立を認める甲第四、第五号証の各一、二、証人甲野ヨシエの証言及び右原告本人尋問の結果によつて北川利明及び周慶蘭を撮影した写真と認める甲第六号証、中華人民共和国貴州省貴陽市公証処作成の公文書と認められるから真正に成立したと推定すべき甲第八号証、第一三号証、証人北川多喜雄の証言により昭和一八年ころの北川利明、甲野ヨシエ、同瞳、北川多喜雄、同実、同弘信を撮影した写真と認める甲第一二号証及び証人甲野ヨシエ、同北川弘信、同甲野瞳、同北川依子こと周桑、同土方厚子の各証言、原告本人尋問の結果(第一、第二回)並びに当裁判所に顕著な事実(歴史上公知な事実)を総合すれば、次の事実が認められ、これに反するが如き証人北川多喜雄の証言も次の認定を左右せず、他にこれを覆えすに足りる証拠はない。

日本国民である北川利明は、先妻との間に多喜雄、実、弘信の三人の子があつたが、昭和六年ころ、中国の上海に渡り、まもなく後妻トクと右三名の子供らを同地に呼び寄せ、実兄の経営する酒造業の手伝いをするほか商店経営、農業などをするようになつたところ、やがて自己の農場で周慶蘭という中国人女性と半ば同棲生活を営むようになり、同女と情交関係を生じ、慶蘭は昭和一二年ころ長男瞳を、同一六年七月二九日に次男である原告を、同一八年ころ長女祥子を順次分娩した。この間、昭和一二年の蘆溝橋事件により日中戦争が開始され、右瞳及び祥子は、利明の妻トクの親戚で、同様上海に居住していた甲野政敏・ヨシエ夫婦の実子として届出がされ、同夫婦にもらわれて、昭和一九年同夫婦とともに日本へ帰国した。利明は我が国敗戦後の昭和二一年日本へ帰国し、昭和三一年九月二五日に死亡した。原告は、別明の帰国後、母慶蘭に上海で育てられ、自己の父親が日本人の利明であることを聞かされてきたところ、中国では昭和二四年(一九四九年)、社会主義政権である中華人民共和国が成立し、我が国は、敗戦後の米国等による占領を経て、昭和二六年(一九五一年)、欧州諸国とサンフランシスコ講和条約を締結したが、中国との間では、当時の中華民国政権との間で平和条約の締結ができたのみで、実際上大陸を政治的に支配していた中華人民共和国政権との間では平和条約の締結ができず、同政権との間では外交関係が成立せずして非友好的関係が続き、原告や慶蘭は、日本人の子であり、日本人の妻であつたことを理由に種々のいやがらせや迫害を受け、苦難に満ちた生活を送つた。原告は、昭和三五年(一九六〇年)ころから、日本への帰国を希求し、日本在住の実兄甲野瞳に手紙を出したことから同人と連絡がとれ、はじめて利明の死亡の事実を知り、さらに中華人民共和国公安局外事課に日本に帰りたいとの手紙を出したりしたが、日本への入国が実現しないまま、昭和四一年(一九六六年)から始つた文化大革命による国内の政治的、行政的混乱のために、その実現はいつそう遠のき、国内の裁判機構も事実上機能しない状態で、昭和四七年(一九七二年)九月の日中国交回復後も同様の状況が続き、文化大革命が終焉して日中平和条約の締結(昭和五三年(一九七八年))された後である昭和五五年(一九八〇年)になつて中国政府から日本入国のパスポートが認められ、昭和五六年(一九八一年)九月二一日、右パスポートにより日本へ入国した。この間、既に母慶蘭は死亡し、原告は、昭和五五年(一九八〇年)に結婚し、一児をもうけ、昭和五九年(一九八四年)には妻子も来日した。原告は、来日後、我が国へ永住するべく長崎県援護課や法務省と接衝した後、昭和五七年五月二五日、本訴提起に至つた。なお、中華人民共和国貴州省貴陽市公証処では、公的に、原告が利明と慶蘭との間の子であることを認めている。

二 右事実によれば、原告は、日本国籍を有していた利明を父とし、中国国籍を有していたと考えられる慶蘭を母として中国で出生したものであり、中国において右両名の非嫡出子として法律的に認められ、中国国籍を有するものであるということができる。

そうすると、本件認知請求については、法例一八条一項に従い、父に関しては利明の、子に関しては原告の、各本国法により、その許否が決せられることとなるところ、原告の本国法である中華人民共和国婚姻法をみるに、同法は、認知主義を採用せず、いわゆる血縁主義ないし事実主義を採用していると解されるものの、必ずしも外国における認知手続あるいは訴えによる法律的親子関係形成手続を排斥する趣旨ではなく、同様、死後認知に関してもこれを禁じたものとはいえず、さらに出訴期間等に関し、特別の制限をとつているとは解されないから、本件認知請求は利明の本国法である我が民法の定める要件を備えれば許容されることとなる。

三 本訴が利明の死後三年を経過して訴提起された民法七八七条但書に反するものであることは前認定事実に照し明らかである。

しかしながら、前記事実関係に照せば、原告は、日本人父が当時我が国と戦争状態にあつた中国において中国人女性との間にもうけた子であり、その後の我が国の敗戦さらにはこれに続く我が国と中国のそれぞれ固有の政治状況、これを取りまく対立的国際政治環境、両国の非友好的国家関係という、原告の出生前後から長年にわたつて継続した特殊な国際的国内的政治状況・歴史状況のなかで、その身分関係を規律する市民法上の権利・義務を国際的国内的に通常どおり行使することの事実上不可能な立場におかれ、いわば、右のような政治状況・歴史状況のはざまで、日本若しくは中国両国家から当然受くべき身分関係を規律する市民法上の保護を通常どおりには受けえなかつたと評価しうるものであり、事実、中国国内の裁判機構を通じて日本国でも効力を有する判決を取得することはできなかつたと考えられ、また、利明の死亡の事実を同人の死後三年を経過した時にはじめて知つたものであつて、もとより、我が民法七八七条但書の定める期間内に所定の権利行使をして法的保護を受けることは不可能であつたし、右死亡の事実を知つた後も前記のような政治状況が解消するまでは、現実に、右権利行使をしうる状態でなかつたというべきであるから、右のような状況にあつた原告に対し、身分関係を規律する市民法上の保護を保障しえない一方で、同法上の権利行使制限規定のみの順守を求めて、その不順守の故に同法上の保護を拒むのは酷というべきである。そして、原告の請求するところは、自己の親を知り、これを確定する権利であり、さらにこれによつて日本人であることを明確にする権利であつて、人間としての自然な権利要求であり、いわば憲法上の権利と評価しうるものであるところ、民法七八七条但書が右出訴期間を定めた目的は、身分関係の法的安定と認知請求権者の利益保護との衡量調整にあると考えられるから、前記のような状態で右但書に定める期間内に法の定める権利行使をなしえなかつた認知請求権者である原告の利益は十分考慮されるべきである。しかりとすれば、本件においては、右但書の適用を否定し、客観的に妥当な期間内に出訴することをもつて足りるとするか、又は、その起算点を前記政治状況の解消した後である原告の日本への入国の時に繰り下げることが、憲法一三条、三二条等の要請にも合致する妥当なものというべきであつて、本件において、右のような措置を不当とするだけの身分関係の法的安定を害する事情は見当らない(証人北川多喜雄も同人の認識しえた範囲内で原告が利明の子である事情を知らなかつた旨を証言するのみで、原告が利明の子であつた場合にその認知請求を認めることによつて身分関係上の法的安定が害される事情を証言するものではない。)。

そうすると、本件訴えは、昭和五七年五月二五日に提起されたのであるから、日中国交回復が昭和四七年九月、日中平和条約の締結が昭和五三年であることに照し、客観的に妥当な期間内に提起されたということができ、適法ということができる。また、出訴期間の起算点を原告の日本への入国の時である昭和五六年九月二一日に繰り下げれば、いうまでもなく適法となる。

そして、前記のとおり、原告は利明の子であるから、その旨の認知を求める本訴請求は正当である。

四 よつて、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、人事訴訟手続法三二条一項、一七条を適用して、主文のとおり判決する。

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